ツァボの人食いライオン①「最悪級の人食いライオン事件」
動物は人にとって身近な存在で、人もまた自然から生まれた動物に過ぎない。
だが、人は自然では弱く脆い存在でしかなく、エサに過ぎない時もある。
今回は世界有数の肉食獣による「人食い事件」を取り上げていく。
世界有数の人食い事件
その事件は「ツァボの人食いライオン」という事件。
北海道の「三毛別ヒグマ事件」と並ぶ、有数の獣害事件の一つである。
事の起こりは、1898年アフリカのツァボで起こった。
同年の3月から12月にかけて、ほぼ一年ともいうべき期間の間、当時のアフリカの鉄道工事の最中に、巨大なライオンが現れ、作業員たちを食い殺し始めたという事件である。
その犠牲者は100人以上とも言われるが、実際の殺害人数は30人前後とされる。これは三毛別ヒグマ事件をはるかに上回る犠牲者数である。
後に映画化、小説家までされ、シカゴの博物館で剥製も展示され、仕留められた際の写真も残っている。
大自然の一大事業
事件はアフリカがまだイギリス領だった、1898年のほぼ一年間にわたり引き起こされた。
当時は植民地拡張の一環として、インド洋から始まるモンバサを起点とし、ウガンダまでの大規模な鉄道工事が開始された。
3年間の契約で、クーリーと呼ばれたインド、中国人といったアジア人系の労働者を雇っており、その数は3万2000人にも昇った。
犠牲者のほとんどが、この労働者たちだったのだ。
惨劇の舞台はそのちょうど中間地点にある、210キロほど入ったアフリカ屈指の過酷な地域「ツァボ」付近で起こる。
当時は現在とは比較にならないほどの手つかずの大自然がアフリカ中に広がっており、これもある意味事件の発生の要因の一つとなってしまった。
事件はツァボ川に鉄橋をかける工事の際に発生することとなる。
事件発生はこの鉄道工事の総監督であり中心人物の、「ジョン・ヘンリー・パターソン」が工事の完成を主として着任してから、わずか二日後に起こってしまった。
着任当初は労働者、物資や道具も揃い、何も問題なく工事は進んでいたが、怪物は静かに近づいていた。
惨劇の発生
パターソンが着任して二日目に、労働者の一人が他の同僚の労働者が二人ほどいなくなっていると申し出た。
現状の痕跡からライオンの仕業だと考えられたが、アフリカでライオンの存在など珍しいわけがなく、それはパターソンも承知しており、このときはたいして危機感を抱いていなかった。
被害者も比較的経済的に余裕があるものだったらしく、お金をため込んでいたことと、パターソンからみても被害者は非常に善良な人間で、当初は強盗であったのだろうとさえ思ったらしい。
だが、その3週間後に再び惨劇が起こってしまう。
朝に労働者のリーダーだった、インド人の男性が姿を見せず、彼がテント内で眠っていたところ侵入してきたライオンに襲われ、連れ去られたという知らせを受けた。
現場に向かうと、他に居合わせた5人の労働者に事情を聴くと、一人がリーダーが襲われる瞬間を目撃したという。リーダーは抵抗したらしいが、ライオンに食いつかれ逃れられなかったらしい。
他の人間もライオンとリーダーの争いの音を聞いたらしい。
現場には所々に血だまりや血痕があり、さっそくパターソンはその後を追い、ライオンの追跡を開始した。
追っていくとリーダーの遺体がそこにあった。
その状態は凄惨そのもので、バラバラでズタズタに引き裂かれ、どうやら2頭のライオンが激しく争っていたことを示していた。
できる限り残った遺体を集め弔うと、医務官に調べてもらうために一部を持ち帰った。
人の裏をかく人食いライオン
パターソンはライオンの被害を食い止めるために、自らライオン狩りを決行することとした。
その晩ライオンの襲撃を止めるために、パターソンは木の上で寝ずの番をし、待ち構えているとライオンの声が聞こえてきた。
しかし姿が見えず、時間が経つと声も聞こえなくなった。
だがライオンは裏をかくように、800m程離れたテントを襲い、またも労働者を食い殺し連れ去った。
翌日、そのテント近くの木の上で待ち伏せをしたが、またも裏をかかれ労働者が一人殺された。
労働者のキャンプ地は分散し、全体で数キロ以上と、かなりの広範囲にわたっており現れる場所の予測も特定も困難を極めた。
しかも開拓地で何も遮るものもなく、ライオンからしてみればエサ置き場としか言いようのないものでしかなかった。
パターソンにも危機が近づいてきたが、それは続きの記事で書いていく。
人肉を喰った肉食獣は、人間の敵になるのがよく分かったのがこの事件である。